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カメちゃんのお出かけ帳

チームマイナス6パーセント

かめちゃんのBlog

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2004年03月31日

ゴミをなくす法

 駅からゴミ箱がなくなった。
 電車のアナウンスによると「テロ対策のため、ホームのゴミ箱を撤去いたしました。ご協力お願いしま~す」だそうだ。そういえば、地下鉄サリン事件のときも同じようにゴミ箱が消えたっけ。いやはや、なんともイヤな時代になったものだ。でもま、駅のゴミ箱なんて使わないし、関係ないか……と思った矢先、頬がピクッとひきつった。
 ゴミが、エスカレーターの手すりの脇にたまっていたのだ。空き缶や、ペットボトル、菓子の空袋、などなど。どうやら、ゴミ箱がないとわかるやいなや、駅そのものをゴミ箱にしてしまった輩がいるらしい。
 ゴミをポンポン捨てる行為には腹がたつ。「どうせ駅員さんが捨ててくれる」と思っているのだろう。「勝手に駅からゴミ箱を撤去したんだから、ゴミ拾いをするのは駅の責任」なんて思っているのかも知れない。だけど、自分が捨てたゴミが風に飛ばされ、線路に落ちたりしたらどうなるか、考えたりはしないのだろうか。
 駅や街で捨てた自分のゴミは、きっと誰かが片づけてくれると思っているのだろう。まあ、駅構内はそうかも知れない。たぶん、駅員さんがこまめに見て回って捨てているのだろう。いっそのこと、エスカレーターの前で大きなゴミ袋を持って立ってみたら?……じゃない。そんなことが言いたいんじゃなかった。
 いつだったか、教育テレビで「街のゴミがどこへいくのか」をテーマにした番組をやっていた。それによると、ビニール袋などの軽いゴミは、風に簡単に飛ばされて、けっこう遠くまでいく。そして、いつしか川に落ち、海へ向かうというのだ。渋谷で捨てたゴミが、時間をかけて、海へたどり着くのである。
 実は、大平洋に浮かぶ島々は、日本語が書かれたゴミでいっぱいだ(日本海には、韓国語やロシア語の書かれたゴミがいっぱいらしいが)。
 そして、死んで漂着したイルカやウミガメのおなかの中からは、ビニール袋やプラスチックのゴミが大量に出てきたりする。ゴミをエサと誤って食べてしまい、消化できずに死んでしまうのだ。
 これは極端な例かも知れないけれど、そういうこともあるのである。その場所の美化の問題は、二の次なのだ。自分のやる行為には、必ず先がある。それを少しでも考えてみてもらえれば……と思うのである。
 だけど、平気で駅や街にゴミを捨ててしまう輩は、ゴミが線路に落ちようが、海までたどり着こうが「そんなの関係ないじゃん」と思うだけだろう。
 そういうヒトたちに、説教がましくクドクド言っても効果はないに違いない。ならば、シンガポールのように、ゴミのポイ捨ては重罪にすればいいのだろうか。たぶん、「見つかんなきゃいいじゃん」で終わりそうな気がする。
 そういう輩にはムチは効かない。飴なのだ。で、どうだろう。とびきりオシャレでイキな携帯用MYゴミ袋を流行らせるっていうのは? ブランド大好き日本人のために、シャネルやエルメスがデザインしてくれるとか……え? 流行らない? じゃあ、その携帯用MYゴミ袋のゴミを、お近くのコンビニに持っていくとポイントがもらえ、それがたまるとお金じゃ買えない超レアなグッズが当たるとか……興味ない? じゃあじゃあ、宝くじ付きの携帯用MYゴミ袋っていうのはいかが? 同じくゴミをコンビニに持っていくと、くじが引けるとか……。
 とまあ、とにかく、なんでもいいから、ゴミは捨てるよりも捨てない&拾うほうが得をするという仕掛けをつくればいいんじゃないかと言いたいのだ。
 なんて、実は外のことばかり言ってはいられない。ウチも家がゴミ箱になっているではないか~っ! では、我が家でも、散らかすより片づけるほうが得をする仕掛けを……。
 と、やっぱりこの考えはダメかも知れない。片づけたほうが得をする(気分がいい!)ことぐらい初めからわかっているではないか。わかっているのに、できないのだ。……嗚呼、情けなか。

投稿者 かめちゃん : 05:56 PM | コメント (0)

2004年03月30日

ネズミ退治のいまむかし

 ネズミを見た。しかも、高級住宅街といわれる田園調布で。
 母親のマリは、ただいま、カイセン(ダニじゃ)にかかって、病院通いをしている。近所にモルモットを診てくれる病院がないもので、わざわざ電車を乗り継ぎ、田園調布の病院まで通っているのだ。
 まあ、お屋敷の多いこと。高い塀に「セコム」のシールがベタッと貼られている家ばかりだ。駐車場には黒塗りの車。お散歩しているワンちゃんたちはみな血統書付き。庭は花であふれ、桜の木まであったりする。所変われば……ですかな、と、そんなお屋敷を見ながら歩いていたら、とつぜん、高い塀の上をザザザッと走る灰色の生き物が! ネズミである。けっこう、でかい。
「ふっ……、高級住宅街でもネズミは出るか」となぜか顔がほころんでしまう。ウチの近所みたいに、野良猫放しておいたほうがいいんじゃないのぉ? なんて思ってしまう。ま、いまどきの猫でも、ネズミをとるならば……の話しだが。
 これまで、生で見たネズミはというと、渋谷の飲み屋で壁際を走るネズミと、某駅の線路の上を走るネズミの2匹だった。さすがに飲み屋で見たときはゴキブリを見たとき以上に驚いた。あれ以来、あの店には一度も行ってない。
 そういえば、昨日だったかサトウキビ畑でネズミが大発生しているというニュースを見た。毎年駆除対策(どういう対策かはレポートしてない)をとっていたのを、今年は怠ったせいだろうという話しだ。ネズミが畑に現れるたび、棒をもっておっかけるオーナーさんの姿は、まるで人参を盗んだ「ピーターラビット」を追っかけているおじさんのようである。昔も今も、追いかけっこする姿は、同じだ。
 ネズミはどうやって駆除しているんだろう。そういう残酷な部分のレポートはなぜかやらない。「大発生した」→「困ってる」という状況だけを、映像とコメントで埋めるだけ。サトウキビをかじっているネズミの映像ばかり流していたら「そんな甘いモノばかり食べて、虫歯になったらどうする」と、ネズミ側の心配をしてしまうではないか。
 大発生は、いつか必ず収束に向かう。ただし、畑の作物をすべて食い尽くした後だから問題なのだ。見つけたら、有無を言わせずともかく駆除! ……だが、そんな(ヒトからすれば)極悪ネズミくんも、数百年前までは、裁判を受けていたのだ。刑が決まるのはそれからだ。
 その話は、前に紹介した『動物裁判』(池上俊一著)に載っている。中世ヨーロッパでは、ネズミや毛虫などの害虫が大発生し、為す術がなくなると、教会裁判所にそのネズミや虫に対して訴訟を起こすのだ。裁判に勝てば、悪魔払い、あるいは破門といった刑があたえられ、コトは収束すると考えられていたらしい。事実、破門を宣告(ネズミや虫がだよ)されると、ことごとく収束したらしい。ま、自然とおさまる時期まで、裁判をひっぱったってことだろうが。
 ここには詳しくないけれど、たぶん、殺しても殺しても収拾が付かない場合、裁判という儀式、つまり神のお裁きに頼るしかなかったのだろう。ジャイナ教のように「虫といえども、殺すべからず」という教えがあったってわけじゃないと思う。ただ、虫や動物も神が創ったもの、という考えは根底にある。
 訴えられたネズミや虫には、なんと弁護士がつく。法廷には被告も召喚されるのだが、呼びかけても来るわけがない。時間をかせぐため、弁護士は「短小の足でそんなに速くすすめない」とか「敵の猫が狙っていて遠回りの必要がある」など理由をつけていたらしい。なんだか低学年向けアニメのネタみたいだ。が、彼等はいたって本気。そして、最高刑の「破門」の力を、心底信じていたようなのだ。教会から追ン出されるというのは、この時代、何よりも恐れることだったのだろう。
 今思えば滑稽な動物裁判。だけど、「駆除」という言葉だけで、実体を伝えないテレビ報道ばかり見ていると、ネズミも虫も生き物じゃないように思えてくる(あえて知りたいわけではないが、知らないことのほうがよっぽど怖い)。まして、都会にいれば、ネズミが塀を走っているだけでびっくりしてしまうほど、遠い存在になっているのだから。
 ヒトと同じように裁判をうけていた中世の動物たちは、いまの動物たちより幸せなのではないだろうか。そんなの知ったこっちゃないって?……ま、そうなんだけどさ。


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投稿者 かめちゃん : 05:55 PM | コメント (0)

2004年03月29日

お目覚めの春

 はるうらら……「東京では桜が満開」とニュースで言っていたけれど、今日、某都内で見た桜はもう散っていたぞ。それも花ごと(花びらヒラヒラじゃなくて、花ごとボトッと……)。
 今日はあまりに天気がいいものだから、午前中からベランダに出ていた。数日前の強風でぶっ倒れたコニファーを植え直すためだ。幸い、幹からグキッと折れていたわけではなく、土が少なすぎて、根からグネッと曲がってしまっただけのようだった。土を掘っていると、コガネムシの幼虫が出てきた。アリもちらほら。ようやく本格的な春到来だ。
 そういえば……秋から土に潜ったきりのカタツムリはどうしているだろう。生きていればそろそろ動き出してもいい頃なんじゃないだろうか。……ということで、彼のねぐらのプランタを覗いてみた。
 そのカタツムリは、雑草の生い茂るプランタの土の中にいる。と言っても、カタツムリが潜っているあたりだけは雑草は生えていないのだ。まるで、そこだけを避けているようにもみえる。小枝で土を軽くなでると、なんとすぐそこに、右巻きの貝が!(左巻きの貝は極端に少ないらしい。自然界にあるものは、ほとんど右巻きなんだそうだ。なぜだろう……という本を昔読んだ覚えがあるが、内容はすっかり忘れた)。
 なんだ、こんな浅いところで冬を過ごしていたのか。しかし、真っ白な蓋がされて、生きているのか死んでいるのかわからない。貝にはヒビも入っている。カタツムリは貝(殻)が割れると死んでしまうというから、もしかしたら、死んじゃったかも知れない……と思いつつ、霧吹きで水を拭きかけた。彼には、水分は不可欠なのだ。
 いくら水をかけてもぴくりともしなかった。やっぱり、死んじゃったかな、とあきらめて、その場を離れた。モンシロチョウが飛んできた。う~ん、春だ。
 冬眠は寿命を極端に長くするらしい。いつだったかの番組で、ハムスターとシマリスの寿命について取り上げていた。身体の大きさは同じぐらい。しかし、その寿命はまったく違うらしいのだ。ハムスターは2年、シマリスは12年。その差を生むのが冬眠だというのである。
 シマリスは、『アリとキリギリス』のアリさんと同じく、地下の巣穴にたらふく食物を蓄えておき、時々、目覚めて食べるのだそうだ。まさに「食っちゃ寝」の生活だ。しかし、冬眠する動物がすべてこのようなスタイルをとるわけではないらしい。
 熊は冬眠中に食べることはなく、身体に蓄えた脂肪を消費することで乗り切る。その間、排泄もしないでひたすら寝てるのだ。
 は虫類など変温動物は、気温に合わせて体温も下がり、動けなくなる。眠っているというより、仮死状態といったところだろうか(カタツムリもこれか?)
 冬眠は、食べ物不足となる冬を乗り切るための手段だ。なんでこんなことができるんだろう。というより、どうしてそういう進化の仕方ができたんだろう。
 シマリスの場合は、冬眠を引き起こす「冬眠特異的タンパク質(HP)」ってものを持っていて、それが温度の低下によって血中のHP量が低下し、冬眠を引き起こすらしい。前にみた番組では、そのHPがあれば、ヒトも冬眠することができるようになるんではないかという研究が行われていると言っていた。
 仕事や家庭でヤバイことがあったとき、すかさず長期冬眠にはいってその場をしのぐ……なんてことができるようになるんだろうか。冬眠している場所を見つけられたら、ボコボコにされること間違いなしだが……。
 なんてことを考えながら、ベランダで作業すること2時間。そろそろお昼だ、ってことで、部屋に戻る際、再びカタツムリのプランタを見た。
「貝が動いてる!」
 カタツムリは生きていたのだ。さっそく、レタスを入れてやったところ、角をとがらせ、食う食う……(雑草はどうもお気に召さないようで食べないのだ)。
 今日は冬眠していた生物たちの、お目覚めの日なのかも知れない。なんだか、新年度の始まりという感じだ。

投稿者 かめちゃん : 05:54 PM | コメント (0)

2004年03月28日

ぼくのお葬式

 なんと、本物のぼく(カメちゃん)が昨夜、死んでしまいました。
 今月末でちょうど4歳半になるんだけど、4歳を過ぎた頃から、体調を崩していたのだ。病院でもらった薬で復活したものの、同時期、歯を悪くして、エサは水でふやかし、それも食べられないときは、エサをミキサーで粉々にしてシリンジ(注射器)で強制給餌……という状態が続いていたのである。
 半年、よくがんばったものだ。直接の死因はわからないけれど、このところの気温の変化の激しさに、ついていけなかったのかも知れない。「眠ったまま逝っちゃったようです」というほど穏やかだったのが救いではある。
 ということで、カメちゃんの日記は本日にて終了……ってわけじゃない。たとえ生物学的な命は尽きてしまっても、存在の記憶はまだ生きているからね。その記憶がキャラクターのカメちゃんであり、新しい生命だから、この記憶の命が死なない限り、続けていきたいと思うのだ(……たぶん)。
 4歳半は、モルの時間の長さとしてはわりと長いほうかも知れない。ヒトの時間にすれば、なんとはかない命だろうと思えるけれど、時間の長さは、さほど重要じゃない。いちばん重要なのは、「存在した」っていう事実そのものだ。
 昨日、動物には2種類あって、ひとつは野生動物で、もうひとつは家畜化された動物だって書いたけど、家畜化された動物の中にも2種類ある。ひとつは「種」として扱われる家畜で、もうひとつは「個」として扱われる家畜=ペットだ。
 野生動物も、家畜も、ペットも、「存在した事実は消せない」ということでは同等だ。たとえ、誰の目に触れることなく一生を終えた命であっても、存在したことによって、この世界の何かに影響を及ぼしていたんだと思う。そのことについても、同等だ。だけど、ペットだけは、ヒトの記憶の中に生命を宿すことができる。これだけは同等じゃない。特別なことだ。
 実は、シロ、クロの兄弟も、すでに記憶の中の生命だ。この3兄弟のキャラは、実際に存在していたからこそ、まだ生きている。……特別な存在なのだ。
 さて、いつもなら、亡骸は実家の庭に埋めに行くのだが、諸事情あって、いま、実家に帰れないのだ。で、どうしようかと迷ったあげく、ペットの葬儀屋に頼み、火葬してもらうことにした。骨は返骨してもらい、後日、実家の庭(お墓コーナーがある)に埋めに行けばいいと思ったのだ。
 電話して事情を話すと、まず「ご愁傷様です」と丁寧なお言葉をいただいた。思わず「ありがとうございます」と言ってしまったが、こういうときはなんと言えばよかったんだろう(嗚呼、非常識)。
 葬儀屋さんは、車で引き取りにきてくれると言うことだったが、どんなところなのか知りたかったので、こちらから伺うことにした。渡して骨になって返ってくる……じゃ、あんまりだし。
 最初に通されたところは納骨堂だった。犬や猫、ウサギからハムスターまで、あらゆるペットの骨壺がキレイに並んでおり、写真や花で供養していた。中央奥には立派な祭壇があり、そこに亡骸を乗せるように言われて、安置。そして、線香を手向け、合掌。どうやらお坊さんを呼ぶこともできるらしいが、無宗教なもんでそれは、ご遠慮願った。
 手続きは簡単で、
1.合同葬(他の仔と一緒に焼く)か個別葬を選ぶ
2.返骨か納骨か埋葬かを選ぶ(納骨の場合は、納骨堂で供養後、供養観音へ合祀。埋葬の場合は、即、供養観音に合祀)
である。
 火葬の立ち会いもできるようだが、それはお任せすることにして、遺骨が戻ってくるのを家で待つことにした。さらば分身。4年半、ありがとう。その思い出は、しかとこの身に……である。
 渡してから、4時間ほどで返ってきた。骨壺は、きれいな錦の袋に包まれて、豪勢である。媚びを売らない孤高なカメちゃんには、なんともふさわしいではないか。
 ということで、残念ではあるけれど、カメちゃんの精神(?)を引き継ぎ、まだまだ、このサイトでは、ぼく=カメちゃんが、ガイド役を務めていくよ。ん? 日記以外、更新されていないって? ……カメちゃんとは、そういうヤツなのだ。
 合掌。

投稿者 かめちゃん : 05:52 PM | コメント (0)

2004年03月27日

動物は友だち?

 先日、テレビで久しぶりにパンダを見た……じゃなくて、ムツゴロウさんを見た。その番組は、中国のパンダを取材したものだったのだが、そのレポーターがムツゴロウさんだったのだ。あいかわらず動物と仲良しこよしで、まるで動物の言葉のわかる、ドリトル先生の映画を見ているようである。
 さて、このムツゴロウさんの北海道にある動物王国が、東京都あきるの市のサマーランドに隣接するファミリーパークに移転してくるらしい。この施設、よくわからないのだが、動物園じゃなくて、人間と動物が一緒に暮らし、動物の生態を研究するところ ……で、あってる?
 が、この移転については、あきる野市の市長さんから待ったがかかっているようだ。理由は、キタキツネや犬から感染するエキノコックスの本州上陸を心配してのことである。
 エキノコックスはサナダムシの一種で、ヒトに感染すると肝障害を起こし、死亡することもあるやっかいなヤツだ。それが、いったん、本州に入ると、あっというまに広がる恐れがあるというのである。鳥インフルエンザが日本列島を震撼させているいま、この手の話題には、ナーバスにならざるを得ないだろう。
 それにしても、なぜ東京なんかに? と思い、ムツゴロウさんのオフィシャルサイトを訪ねてみた。そこに記されていることによれば「長年、北の地で培ったものを都会で展開するのは私たちの夢でした」として、「自然は友だち、動物は友だちと信じ、さまざまな技術を習得し、ソフト面を開発して参りました。それを多くの人に手渡し、楽しんでいただく空間にしたい」んだそうだ。つまり、東京進出は、動物ふれあいランドをつくりたいということなんだろうか。
 動物には2種類ある。野生動物と家畜化された動物だ。「動物は友だち」と言っても、それは家畜化された動物に限ってのことだろう。ムツゴロウさんの王国にいる動物は何種類いるのかはわからないけれど、少なくとも、ヒトの管理下におかれているのなら、もはや野生動物とは言えないのではないだろうか。エキノコックス感染の疑いのあるキツネには、毎年春秋に駆虫薬を与えているということなので、これはどう考えても野生じゃない。本当の自然は怖いし、本当の野生動物も怖い。ドリトル先生には、とうていなれるもんじゃないのだ。
 家畜化され手厚くもてなされる動物がいる一方で、増えすぎを理由に駆除されている動物もいる。エゾシカや山羊、それにマングースなどだ。理由は、農作物を荒らすということや、自然破壊(エサとなる動植物の絶滅を招く)。自然のバランスというのは、ちょっとしたことで崩れるし、安定は永遠に持続するものではないだろう。だけど、いまの生態系を壊さないようにと、駆除と保護を繰り返しているのだ。駆除される動物も、保護される動物も、ヒトのコントロール下にあることには変わりないってことだ。
 果たして、ムツゴロウ王国の東京移転の許可は降りるのだろうか。無事に降りたとしても、もし、「ふれあい」だけを売りにしているのなら、動物園がひとつ増えるだけで、目新しいものはなにもない。
 自然と野生動物と、本当に友だちになりたいのなら、本来のあるべき姿もきちんと伝えるべきじゃなかろうか。
「自然も動物も、ヒトがコントロールしているから、安心してふれあえるんですよ。そうでなければ、畏怖して近寄らず……が友だちへの礼儀です」……なんてな(嗚呼、和久さん、さようなら)。

投稿者 かめちゃん : 05:50 PM | コメント (0)