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2004年10月27日

観劇の季節『チェーホフ的気分』の巻

  「オレ的にはこの芝居、まあまあだったな」ってな若者言葉は、社会に定着したのだろうか。
「~的に」というのは「~としては」ってことだから、「オレとしてはこの芝居、まあまあだったな」という意味だけど、感想を言うときは主語がわかっているから、「この芝居、まあまあだったな」だけでもいいわけだ。なのに、なんでわざわざ「オレ的」なんて主語+的を入れるかといえば、「ぼくとしてはこう思っているんだけど、きみはどう思うよ?」という問いかけを含めて……って、なに書いてんだ、違う、違う。そんな言葉遣いの話はどうでもいい。今日の話題は昨日観た劇団昴の公演『チェーホフ的気分』である。「チェーホフ的」という場合の「的」は、「チェーホフとしての気分」ってわけで……タイトルとしてどうよ?(って言いたかったんだ)。
 アントン・パブロヴッチ・チェーホフは19世紀末のロシアの作家・劇作家で、近代劇の父と言われている。今年は彼の没後100年。この『チェーホフ的気分』という劇は、そんな彼自身の人生を、彼と恋人たち(たくさんいたようだ。しかも人妻!)との往復書簡を元に描いたものだ。この劇の作者はユーリー・ブイチコフというロシアの作家。今回の公演は、その戯曲の翻訳版(中本信幸訳)である。
 出演者はたったの7人。チェーホフと彼のよき理解者の編集者、妹さん、そして、4人の恋人たちだ。舞台はチェーホフの机(作品をえがいてきた机)を中央に置き、左端に聞き役の編集者の座っている椅子。いかにもオブザーバーという位置だ。そしてチェーホフの机を囲むように、妹さんを含めた女性たちのいるスペースが、ぽつんぽつんと割与えられている。それぞれの場所をベースに、中央のチェーホフと手紙の文面を読み合う形で、舞台は進んでいく。
 こういう舞台構成は、テレビや映画では描けない。空間が必要なのだ。そして観客には、想像で補わなければならない部分が多々生まれる。たまに舞台を観ると、テレビや映画がいかに親切で、いかに受け身で観ていたかがわかる。
 2時間半(休憩15分含む)、起承転結があるわけではない。10年間にわたるチェーホフと恋人たちとの手紙のやりとりの中で、それぞれに起きた出来事が報告され、それに対し、言葉をもらい、言葉を返す。すべて遺されていた書簡による本当の出来事であり、本当の言葉である。恋人たちは、それぞれが別の劇場で自分のドラマ(人生)を送りながら、ときおり、この小劇場にいるチェーホフに報告している、そんな感じである。
 手紙はリアルではない。そのリアルな出来事が起きた後に自分の中で整理されたものだ。だから、その文面は、どんなに感情的な言葉が躍っていようとも、どこか、理性が隠れている。そのせいだろうか、子どもが死んだ(人妻だからね、子どもがいるのよね)という報告でショックを受けるチェーホフにも、チェーホフが病気で倒れたという報告に動揺する恋人たちにも、観客側は冷静な目を向けている(白けてるってわけじゃなく)。
 この舞台では、舞台と観客席はおなじ時代にはいないのだ。その間には100年の月日の差が確実にある。舞台は100年前のロシアに観客を連れていこうとはせず、現代に置いてきぼりにしたまま、アルバムを開くように、過去を見せている。手紙というものの本質を、うまく描いたように思えるけれど、この舞台、退屈だと感じるヒトは寝ちゃうかも知れない。
 それにしても、19世紀末の文学者の粋な言葉は、現代では「キモイ」って思われちゃうんだろうな。もし、チェーホフのような歯の浮くような愛の言葉をもらったら、うれしいだろうか?
「わたし的には、まあ、許す」
 チェーホフが現代の言葉を聞いたら、びっくりするだろうなぁ(って日本語知らないじゃん)。

投稿者 かめちゃん : October 27, 2004 01:24 PM

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