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カメちゃんのお出かけ帳

チームマイナス6パーセント

かめちゃんのBlog

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2004年10月30日

お休みです

 今日と明日の日記はお休みです。
 いつもの年より早いんだけど、今日、暖房を入れてしまった。できるだけ使わない生活したいんだけど、ダメだ~、寒さは苦手だ~。身体だけなら毛布にくるまっていればいいんだけど、パソコン使うとき、手が冷たくなっちゃうんだよなぁ。むれなくて暖かくてキーボードを違和感なく打てる手袋ないかなぁ。

投稿者 かめちゃん : 01:28 PM | コメント (0)

2004年10月29日

放送自粛映像

 小学生の頃、学校で映画鑑賞会というのがあった。その中に、関東大震災を描いた映画があり、その恐ろしさにしばらく道を歩くのも怖かった覚えがある。
 中でも印象に残っているのは、一家で逃げていく途中、道路が割れて、その割れ目にお母さんが落ちていくシーンだ。見終わった後、先生は「地震はいつくるかわかりません」という追い打ちをかけ(事実なんだが)、それが更に萎縮させた。
 いまはそんな映画を学校で放映することはないのだろう。戦争映画も何本か観たが、それもないのかも知れない。熊本のある小学校の教師が「肝試し」として、被爆者の写真を生徒に見せたという許し難い事件があったけれど、それを見た子どもたちの中には、怖くて泣きだした子もいたという。現実に起きた悲劇を非現実のお化けのように扱った教師にはあきれるが、彼が見せた写真は、消すことのできない事実であることに間違いない。
 いま、ゴールデンタイムのニュースでも朝の情報番組でも、毎日、「死」の報告がある。家族でご飯を食べながら「死」の報告を聞く。実際にそれがどういうものなのか想像することは、たぶんない。
 このところ、アニメが急遽、再放送に差しかえられたりしている。理由は「地震のシーンがあるので考慮した」というものだ。被災地の子どもたちを思ってのことであり、当然の処置だろう。地震に遭うまでは平気で見ていられただろう映像が、急に自分のものになってしまったのだ。そんな子どもたちには酷である。
 しかし、少し疑問が残る。映像は、本来、体験していないものを体験し、そのことに思慮を巡らすための道具ではなかっただろうか。実体験をしていない子どもたちが、映像を通して体験をする。そういう機会は、いまのメディアからは得られないということだ。いくら地震のアニメを見ても怖くない。人がたくさん死んでも悲しくない。平気でご飯が食べられる「死」や「地震」だけが、いまの子どもたちの目に触れる。
 それがいいのか悪いのかはよくわからない。いまだに、学校の映画で観た、割れ目に落ちていく母親の形相が目に浮かぶのだ。こんな体験をする必要があっただろうか? 少なくとも「地震のあとは、闇雲に逃げちゃいけない」ってことは、教訓として得たけれど。
 イラクで拉致された香田さんに対するコメントは、「助けなければ」と言いながらも冷ややかなものが多いように思える。たぶん彼は、ホンモノの戦場も、ホンモノの「死」も知らなかったのではないだろうか。そんな彼に突きつけられたホンモノの生と死のニュースを、ご飯を食べながら「自業自得だから仕方ない」と思うヒトが多いとしたならば、やはり、少しばかりショッキングではあっても、現実に近い映像や、現実の映像をきちんと観ることは必要なように思えてくる。
 地震も死も恐ろしい。だけどそれを「知らない」ということは、もっと恐ろしいことを招いてしまいそうで、恐ろしい。

投稿者 かめちゃん : 01:27 PM | コメント (0)

2004年10月28日

悲しき党首討論

 は~い、みなさん。昨日は久しぶりに党首討論がありましたね~。観ました? え? 観てない? そりゃそうだよねぇ、時同じくして新潟地震で生き埋めになってしまった親子の救出が行われていたんだもの。NHKも通常総合でやるべき党首討論を教育テレビに追いやり、ずっと、その状況を映し続けていたわけで、その優先順位には、誰も文句は言わなかったでしょう。
 しかし、「台風」「地震」「イラクの人質事件」と国民の生命と財産が脅かされる大問題が起きている最中の党首討論。親子の救出を見守っていたいという気持ちもあるけれど、やはりこちらも観ないわけにはいくまい。ってことで、教育テレビにチャンネルオン! ニュースでもやることはやるけれど、討論というものは、ぶっとうしで観ないと両者の力量は見えてこないものだ。ニュースメディアが適当に場面をつないで、適当に解説した映像からうかがえるのは、そのメディアが何を伝えたいかということだけだ。
 が!
 イラク人質事件では、「自衛隊の撤退要求は拒否するが、救出に全力をあげる」という首相の既出の意志を確認するにとどまり、地震、台風災害については、「視察に行った」「ここにも行った」と互いに地名をあげて「現地に入ってるぞ」ということをアピールしあった上、被災者生活再建支援法の改正(支給金の用途拡大のため)を求めるという内容。で、後は延々、献金問題である。
「お~い、空気読めませんか~」
 もしかしたら、あらかじめテーマは決められていて、直前に話題を変えることができないルールなのだろうか? だとしても、お国というのは国民の生命と財産と自由を守ることがお役目のはず(違うのかな?) その生命と財産が脅かされているときなのだから、話題を変更し、せめて「政府はこれだけのことをやろうとしている。安心せい!」という力強いメッセージを出して欲しかった。
 しかしメインは政治献金にまつわる話。
「政治に金がかかるのは仕方がないことでしょう」
 だったら、仕組みを変えればいいのでは? 政治家は「できない」だの「仕方がない」だの軽く言わないでいただきたい。できないならば、その枠組みを変えて、不可能だったことを可能にしてくださいな。まるで丈の短いセーターを着て「短いから厚手のコートで覆うのはしかたない」と言っているようなもの。長めのセーターに変えるか、足りない分は編めばいいだけで、高いコートなど必要ない(ちょっと例題が違うか)。つまり、システムをよりよい風に変えることが、政治のお仕事ではないのかってことだ。
 まあ、しょせん、イギリスのまねっこ党首討論。不定期水曜日の夕方、45分程度の討論なんて誰が観るのだろう。本気で国民に観てもらいたいなら、日曜日の朝かゴールデンタイムにやればいい。事前に決めたテーマではなく、アメリカ大統領選の候補者の討論のように、一般客をいれて、そこから質問をもらい、それをテーマに討論するとか、やり方はいくらでもあるはずだ。少なくとも、汚いヤジを飛ばす国会議員を外野に置くより、一般客を招いたほうがよっぽどいい。
 国のトップたちが、暖かい会議室で討論をしていた間も、財産を失い、家を失い、またいつくるともわからない余震におびえながら、寒さと絶望と不安の縁に立たされている大勢のヒトビトがいたのだ。そして、異国イラクの地で、命を天秤にかけられている青年がいたのだ。彼については、うかつすぎて怒りを覚えるけれども、それでも助けるべき大切な命である。命の選別を行うことなどできやしない。
 そんなヒトビトの心境を考えたときに、国のリーダーが話し合うべき内容はいったいなんだったのか。空気の読めないリーダーたちの、なんとも悲しき討論でした。

投稿者 かめちゃん : 01:26 PM | コメント (0)

2004年10月27日

観劇の季節『チェーホフ的気分』の巻

  「オレ的にはこの芝居、まあまあだったな」ってな若者言葉は、社会に定着したのだろうか。
「~的に」というのは「~としては」ってことだから、「オレとしてはこの芝居、まあまあだったな」という意味だけど、感想を言うときは主語がわかっているから、「この芝居、まあまあだったな」だけでもいいわけだ。なのに、なんでわざわざ「オレ的」なんて主語+的を入れるかといえば、「ぼくとしてはこう思っているんだけど、きみはどう思うよ?」という問いかけを含めて……って、なに書いてんだ、違う、違う。そんな言葉遣いの話はどうでもいい。今日の話題は昨日観た劇団昴の公演『チェーホフ的気分』である。「チェーホフ的」という場合の「的」は、「チェーホフとしての気分」ってわけで……タイトルとしてどうよ?(って言いたかったんだ)。
 アントン・パブロヴッチ・チェーホフは19世紀末のロシアの作家・劇作家で、近代劇の父と言われている。今年は彼の没後100年。この『チェーホフ的気分』という劇は、そんな彼自身の人生を、彼と恋人たち(たくさんいたようだ。しかも人妻!)との往復書簡を元に描いたものだ。この劇の作者はユーリー・ブイチコフというロシアの作家。今回の公演は、その戯曲の翻訳版(中本信幸訳)である。
 出演者はたったの7人。チェーホフと彼のよき理解者の編集者、妹さん、そして、4人の恋人たちだ。舞台はチェーホフの机(作品をえがいてきた机)を中央に置き、左端に聞き役の編集者の座っている椅子。いかにもオブザーバーという位置だ。そしてチェーホフの机を囲むように、妹さんを含めた女性たちのいるスペースが、ぽつんぽつんと割与えられている。それぞれの場所をベースに、中央のチェーホフと手紙の文面を読み合う形で、舞台は進んでいく。
 こういう舞台構成は、テレビや映画では描けない。空間が必要なのだ。そして観客には、想像で補わなければならない部分が多々生まれる。たまに舞台を観ると、テレビや映画がいかに親切で、いかに受け身で観ていたかがわかる。
 2時間半(休憩15分含む)、起承転結があるわけではない。10年間にわたるチェーホフと恋人たちとの手紙のやりとりの中で、それぞれに起きた出来事が報告され、それに対し、言葉をもらい、言葉を返す。すべて遺されていた書簡による本当の出来事であり、本当の言葉である。恋人たちは、それぞれが別の劇場で自分のドラマ(人生)を送りながら、ときおり、この小劇場にいるチェーホフに報告している、そんな感じである。
 手紙はリアルではない。そのリアルな出来事が起きた後に自分の中で整理されたものだ。だから、その文面は、どんなに感情的な言葉が躍っていようとも、どこか、理性が隠れている。そのせいだろうか、子どもが死んだ(人妻だからね、子どもがいるのよね)という報告でショックを受けるチェーホフにも、チェーホフが病気で倒れたという報告に動揺する恋人たちにも、観客側は冷静な目を向けている(白けてるってわけじゃなく)。
 この舞台では、舞台と観客席はおなじ時代にはいないのだ。その間には100年の月日の差が確実にある。舞台は100年前のロシアに観客を連れていこうとはせず、現代に置いてきぼりにしたまま、アルバムを開くように、過去を見せている。手紙というものの本質を、うまく描いたように思えるけれど、この舞台、退屈だと感じるヒトは寝ちゃうかも知れない。
 それにしても、19世紀末の文学者の粋な言葉は、現代では「キモイ」って思われちゃうんだろうな。もし、チェーホフのような歯の浮くような愛の言葉をもらったら、うれしいだろうか?
「わたし的には、まあ、許す」
 チェーホフが現代の言葉を聞いたら、びっくりするだろうなぁ(って日本語知らないじゃん)。

投稿者 かめちゃん : 01:24 PM | コメント (0)

2004年10月25日

血液型と性格

 情報誌は買わないけれど、メルマガなら数本、受信している。だって、タダなんだもん。
 そのなかでも10万以上の配信数をキープし続けている某有名作家が編集長のメルマガで(JMMね)、韓国発のこんなタイトルの記事があった。
「B型男」
 いま韓国では、血液型性格判断が流行しているそうだ。A型は穏やかで従順、だけど慎重すぎて優柔不断。B型は淡白で快活、だけど飽きっぽくて無計画。O型は自信も度胸もあり理性的、だけど強情。AB型は感覚が鋭く個性的、だけどむら気があり神経質。
 まあ、日本で流行ったときの判断結果と似たり寄ったりってところだ。そして、もうひとつ似ているのは、どの型も長所と短所があるにもかかわらず、「性格ワルっ!」とされるのはB型……ってところだ。そのレポートによれば、特にB型男性は、浮気性でわがままということで、女性から忌避対象とされているそうである。ヒトをカテゴリー分けして理解しようとする習性は、どの国でも同じようである。
 そもそも、血液型で性格が決まるわけがない。社交場の話題として取り上げるのはお遊びであって、そんなのまともに信じているヤツなどいないだろう……と思っていた。最近、(何の番組かは忘れたが)幼稚園児を血液型別にわけて、それぞれの行動の違いを観察する番組を見た。おもしろく観てはいたけれど、あれは出演する幼稚園児を選ぶときに、最も結果が出やすいように選んだのだろう。目的は「実験」のようでも、あれはテレビ番組、ショーなのだ。番組の目的は、多くのヒトに観てもらうこと。血液型で行動に差が出る結果を見せなければ、「な~んだ」と視聴者はチャンネルを変えてしまうに違いない。視聴者の期待に応える結果を出すための実験など、信頼することはできない。
 が、信じるヒトは信じてしまう。それがやっかいなのだ。なぜって、B型だから……である。血液型で悪く言われちゃたまらない。
 昔、こんなことがあった。某会社に新入社員として入社したときのこと。その研修で、コンセンサスゲームというのをやらされた。小グループに分かれ、そのグループ内で、ひとつの答えを出せというのが指令。お題目は、無人島に漂流した船の生存者10人のうち、ひとりだけ、島に残さなければならない(他の人は無事に脱出できる)。さて、誰を残すか? というものだ。10人はさまざまな職業を持っている。細かいことは忘れたが、まあ、誰でもいいといえばいいのだ。だけど、その「誰か」を、グループ内で決めなきゃいけないのである。
 さっさと決めちゃうグループもあれば、もめにもめているグループもある。もめてるグループには、トレーナー(先輩社員)がやってきて、ちょっかいを出す。で、ウチのグループにもやってきた。そのトレーナーは開口一番、こう聞いてきたのだ。
「君、血液型何型?」
「は? わたし? B型ですけど?」
「ふふ、やっぱり。会社ってね、B型のヒト、採りたがらないんだよね」
「なんだとごらーっ!(これは心の声)」
 でも残念でした~っ! 採用されたからここにいるんだもんね~(これも心の声)。
 まあ、初対面のヒトの性格を早く知りたい(想定したい)と思う心理はわからなくはない。しょせん動物、上か下か同格か、仲間か敵か中立か……相手のポジションをとっとと決めなきゃ怖いのだ(相手を知るまでの話)。だから、血液型やら星座やら動物占いやらで性格を判断する安易な方法が流行る……んだと思う。
 だいたい性格なんて、自分が思っているのと他人が思っているのと違うもの。しかも経験や環境でどんどん変わる。変わってないと思うのは、記憶が継続しているからだ(ってなことを養老さんの本で読んだ気がする。その記憶は継続してないので断定できないが)。
 性格が変わるたびに血液型も変わるんだったら信じてもいいけれど、こないだのドックで調べたときもやはり変わらずBだった。性格は変わるけれど、血液型は変わらないのだ。確かに先天的な気質はあるかも知れない。だけど、それを一生ひっぱることができたなら、きっと神だ。
 とはいえ、安易な性格判断は、コミュニケーションの円滑湯としては使えるものなんだろうとは思う(それで傷つけちゃダメだけど)。それに「いやぁ~、B型だから、飽きっぽいのよ~」と血液型に責任を押しつけて、逃げる場合にも使える(って逃げられないか)。
 ともあれ、韓国の女性のみなさん、B型男にも優しくしてあげてください。

投稿者 かめちゃん : 01:23 PM | コメント (0)