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2005年06月08日

一炊の夢

2005-06-08.gif さて、昨日のつづき。三島由紀夫の『近代能楽集』のなかの『邯鄲』という物語について。このオリジナル(中国の『枕中記』)は、「人生は一炊の夢さ」なんていうときの「一炊の夢」の話である。
 ある日、立身出世を夢見る貧しい若者(盧生)が、都に向かう途中の邯鄲の旅籠屋で、呂翁という道士に出会った。盧生はご飯が炊けるまでの間、その翁に、自分の身分や人生について、ぐだぐだと愚痴をこぼし、地位や名誉を得、金持ちになる夢を語った。そのうち、盧生は眠気を催し、翁が持っていた枕を借りて仮眠をとった。気がつくと、盧生は都に着いていた。時が経ち、盧生はやがて名家の娘と結婚して身分を得ると、官位につき、あれよあれよという間に出世していく。しかし、そうそううまくはいかないもので、途中、冤罪をかけられ失脚、人生を大いに嘆くことになるのだが、まもなく冤罪と判明、その後は、中央に取り立てられ、子どもたちもみんな高級官僚となり、富と名誉をほしいままにする。晩年も穏やかで優雅な生活を送り、やがて安らかに死去する。が、そこで目が覚め、邯鄲の旅籠屋で寝そべっている自分に気がつく。となりでは、呂翁がご飯が炊けるのを待っている。彼が夢で送った人生は、ご飯が炊けるまでのほんの短い時間の出来事にすぎなかったのだ。盧生は、人生のはかなさを知り、自分が夢見ていたことのつまらなさを実感、呂翁に感謝して故郷に戻っていく。
 いまの若者なら、きっと「人生がはかないことなんて最初からわかってる。だから、自分の夢を追っかけてもいいじゃん。好き勝手やってもいいじゃん」と思うかも知れない。また、いまの親なら「なんでいまみた夢を実現する努力をしないんだ」なんて説教したりするかも知れない。物語に込められたメッセージは、時代や人によって届かなかったり、違う意味に解釈されたりするものだ。
 では、1950年に三島が描いた『邯鄲』はどのような解釈になっているか。舞台は現代(って半世紀前は現代じゃないか)。十八歳の若者が子どもの頃、世話になっていた乳母の住むド田舎の家を訪ねる。その目的は、彼女の家にあるという「邯鄲の枕」を試すためだ。彼は、その存在を、銀座でチャップリンの恰好をしたサンドイッチマンから聞いた。そのサンドイッチマンは、乳母の夫だったのだ。その夫は禁断の邯鄲の枕で眠ってしまい、すばらしい一生を送った夢を見た。そして目覚めて現実を知ると、人生がばかばかしくなって失踪していたのだ。その若者は、もともと人生に夢なんて見ていなかった。まだ何も始めていないのに、自分は終わっている、世の中は終わっていると感じている。若者は、乳母の反対をなんとか抑え、邯鄲の枕で眠る。すると、絶世の美女が妻となり、会社の社長となり、あげくは総理大臣となる夢を見るのだが、そんな人生を彼は罵倒し意味がないと一蹴する。夢を見せていた枕の精霊は、そんな「誰もが望む成功の夢を見せてあげているのに」と怒り、彼の望みは「死」以外にないと毒薬を飲ませようとする。しかし、彼は「死にたくはない」と「死」すらも拒む。生きようともせず、死のうともしない若者を前に精霊は消え、彼は目覚める。そして「やっぱり、人生って思ったとおりだ」と乳母に告げ、あいかわらずなにもする気のない若者は、目的もないままその乳母の家に住むことに決める。すると、夫に失踪された後、枯れてた庭の花が、再びきれいに咲き出して……幕。
 つまり、もともと人生に価値を置いていない若者が、夫に逃げられ、ひとりさみしく過ごしていた乳母と一緒に住むことになり、乳母の人生に再び花が咲いた……ってな感じのお話だ。人生の成功を「人が見る最高の夢」と思っている精霊こそ愚かだといわんばかりの若者は、果たしてもともと悟りを得ていたのか、ただの負け犬なのか、その答えも、時代によっても人によっても変わるのだろう。
 戯曲を読み物として読む場合は自分の解釈しか得られないけれど、舞台は、その演出者の解釈を知ることができる。さて……って、観にいく舞台で『邯鄲』はやらないではないか! ま、どこかの劇団がやってくれれば、観にいこうかな。

投稿者 かめちゃん : June 8, 2005 12:14 PM

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