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カメちゃんのお出かけ帳

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かめちゃんのBlog

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2006年11月22日

DVD鑑賞『カーズ』

2006-11-22.gif 先入観がどれほどあてにならないものか……映画は、けっこう、それを痛感させてくれる。とくに、アニメ映画となれば、なおさらのこと……。

 昨日、『カーズ』を観た。3Dの車が主人公のピクサー映画である。主人公が車……というか、そもそも舞台は擬人化した車の世界(場所はアメリカ)なので、車しかでてこない……あ、ちがった。そのほか、飛行機、ヘリコプター、電車などの乗り物もちょこっと。それにハエ(これも羽の生えた車だけど)。

 劇場公開されたとき、culiは仕事上、「観に行かないと~」と言っていたのだが、こっちは正直、劇場で観るほどのものか? どころか、別に観たくないし、一生観なくてもいいや、と思っていた。同じピクサーの『ニモ』は、子供向けアニメといえども、まだ「観てもいいや」と思えた。なにしろ、主人公はお魚。まがりなりにも生物である。しかも、舞台は海の中といえども、陸には人間が住む普通の世界。人間との絡みもある。

 それに引き換え『カーズ』といえば、人間世界をそのまんまに人間を車に置き換えただけ……。もちろん特徴や性格や能力はそれぞれの車の性質に依存しているのだが、いくら本当にある街道・ルート66(このタイトルの旧いアメリカ映画もあるらしいが)を舞台にしていても、そもそも設定がナンセンスなのである。『スチュワートリトル』でネズミが平然と人間の子ども(養子)として活躍するのもぶったまげたが、大人になると、このナンセンスさを自然に受け入れることは困難だ。
 
 が、この『カーズ』、人間の想像力(この場合適応力か?)を引っ張り出すのがすごくうまい。いつの間にか、この擬人化車たちの世界を違和感なく受け入れ、あたりまえのように一緒にドライブしている。自分も擬人化車になって、擬人化車として観てる~っ! ……みたいな。
 それは、CGの美しさ、動き、音楽などの視覚聴覚の刺激から……というよりは、ストーリーがシンプルでかつ自然、そして、優しさに満ちているからだろう。

 子どもの頃から競争の世界に放り込まれ、時間に追われながらあくせく走り続ける現代人に、「忘れているものがあるでしょう」と立ち止まることを優しく教えてくれるこの作品。ヘタをすれば、説教がましくセンチメンタルになりそうなものを、楽しくスピーディに心地よく描いている。子供向けのアニメといえども、この完成度は高い。使い古された臭い言葉でいえば、むかし子どもだった大人たちに観てもらいたい映画……かな。
 『3丁目の夕日』が大ヒットしたのなら、こっちも、大ヒットしてもよさそうなのになぁ。やっぱり、先入観でしょうかねぇ……。

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投稿者 かめちゃん : 12:05 PM | コメント (0)

2006年11月17日

生まれ変わり

2006-11-17.gif 数日前、とあるテレビ番組で、こんな統計クリップを見た。
「小学生の実に60%以上(細かい数字は忘れた)が、死後、生まれ変わりを信じている」。

 そりゃあ、ここ、仏教国ですから……じゃない。仏教では輪廻転生なんてつらいんだぞ~、早く解脱しろよ~と教えているはずなのに、子どもたちが信じている「生まれ変わり」は、死ねば新しい肉体と環境が手に入る=人生のリセット=すばらしいこと! なのである。

 その番組に出ていた小学生たちのなかで、自殺を考えたことがあると答えた子どもたちのほとんどは、生まれ変わりを人生のリセットだと信じていた。まあ、輪廻転生を望むということは、いまの世の中は「幸せ」だと思っているからだろう。世の中は幸せなのに、自分だけ不幸……だから、いまの自分をリセットして、次の人生にかけてみる。そんな考えから自殺してしまう子どももいるということだ。

 この輪廻転生という思想。別に仏教の専売特許じゃない。いま『オルフェウス教』(レナル・ソレル著、脇本由佳訳)という本を読んでいるのだが、この古代ギリシアの属州(トラキア地方あたり)で流行ったマイナー宗教も、同じく輪廻転生、魂の永遠を説いている。そして、仏教同様、輪廻からの脱出を目指しているのだ。こちらの信者も「この世は幸せ」とは思っていなかったのだろう。

 ギリシア神話のオルフェウスといえば、竪琴弾きの名手である。人間だけでなく、動物も植物もハデス(黄泉の国の神さま)までもをうっとりさせてしまうほど、美しい音楽を奏でる。その音楽家が創始した宗教……とされているようなのだが(まったく関係ないとの説もあり)、その内容は、実にストイックだ。いっさいの殺生を禁止とする、グルメにはキツ~イ、菜食主義である。ちなみに自殺も殺生なので、禁止である。

 そもそもこれを守らないと入信できないし、入信後にこれを破ったら資格を失う。入信儀式は秘密の秘密の密議なため、その詳細はほとんど伝わっていないようだが、信者になれば死んだときに、神の国への秘密の案内板をもらえるらしい(柩に入れてもらえる)。これ、小さな金の板で、そこには神の国への道案内と合言葉が彫られている。死ぬと一切の記憶を失うが、この案内板があればたどり着けるというわけだ。案内板がなければ、道に迷い、審判者に誘導されるまま、飲んではならない泉の水を飲み、再び輪廻の道を歩まされる。が、すぐに生まれ変われるわけじゃなく、その前に、拷問されるらしい……(こわっ)。

 殺生禁止、菜食主義……というあたりも、まるで仏教。どちらが影響を受けたのかはわからないが、どちらも同じ紀元前6世紀頃である。ちなみに、オルフェウスが死んだ妻を取り戻そうとする神話のエピソードは、古事記のいざなぎといざなみの話にこれまたそっくり。オルフェウスはハデスの国まで行って「最後まで振り向かずに地上に出たら、妻を返してやる」との約束をとりつけるものの、最後の最後で振り向いてしまいチャラになる。こちらはあきらかに、日本が「この話も~らい」とアレンジしたんでしょうな。さすがニッポン、いつの時代も、アレンジはお手の物!(ほめてるんです)。

 さて、生まれ変わり……そういえば、子ども時代は信じていたなぁ、と思い出した。紫式部の伝記を読み「私は紫式部の生まれ変わりなのだ!」とメルヘンチックな電波を発していたし、「解脱するより生まれ変わったほうが楽しいじゃん」とも思っていた。幸い(?)「世の中は幸せ、自分も幸せ」だったからいいようなものの、もし、「自分は不幸」と思っていたとしたら、果たして自殺を考えただろうか? いまとなってはわからない。
 中学になって「世の中は不幸で腐ってて最悪の場所、でも、自分は幸せ……」という認識に変わり(ひどいな)、それと同時に生まれ変わりを信じなくなった。いや、その認識のせいではなく「科学的にあり得ない」と思ったからだけど。

 たぶん、中学ぐらいでみんな気付きはじめるのだろう。が、「世の中は幸せ、自分は不幸」と思っている子どもたちに、「生まれ変わりなんてないんだよ」と教えても、何も変わらないように思う。

 ゴダイゴのミッキーさんが、自分のBBSにこんなことを書いていた。
「人は命ある限り生まれ変われる!」
 そうそう、大人になると、そう思える。が、子どもの世界には、そう実感できるシステムはない。子どもは、家庭、学校、地域から自由になることはできないし、たとえ抜け出しても、この先の人生、不利になることがわかっている。

 変えることのできない環境の中で、生まれ変われる方法ってなにかなぁ……
 オルフェウス教に入信したら、自殺は禁止だけど……(って、もうないよ)。
「だからこそ、教育基本法を変えるんですっ!」
 というわけなのかは知らないが、そんな動きも見えている。これでますます不自由にならなきゃいいけどね。

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投稿者 かめちゃん : 02:45 PM | コメント (0)

2006年11月09日

著作権って……

2006-11-09.gif ここ数日、実家に行っていた。バスと電車を乗り継ぎ、片道3時間ちょっと。移動中は、たいてい本を読んでいて、行きは歴史系新書を読み、帰りはダン・ブラウンの『天使と悪魔(上)』を読んだ。ダヴィンチ・コードで一躍有名になった作家だが、前作のこっちのほうがおもしろいと聞いて、こっちから読み始めた。まだ上巻しか読んでいないので感想は後にするが、帰りの片道3時間は、この本のおかげで、あっという間だった。

 しかし、よくも小説のネタってつきないものだなぁ……と感心したところで、ふと、昨晩実家で観たテレビのニュースを思い出した。『銀河鉄道999』(松本零士著)の名台詞を槇原氏が勝手に歌詞に使った(つまりパクッた)という騒動。画面に出ていたのは松本氏で、槇原氏が自分のホームページで松本氏に反論(批難)したことにかなりお怒りの様子だった。

 知っていて拝借したのか、無意識にインプットされていた言葉を綴っただけなのか、それともまったくの偶然なのか……。まあ、これは本人のみぞ知ることだ。本屋に行ってもCD・DVD屋に行っても、それこそ五万と創作作品はある。いや、それどころか、いまやネット上では、毎時間、毎分ごとに、星の数ほどの著作物が生まれているのだ。もし、既出の作品の著作権を侵さないように注意するなら、それら膨大な作品をつぶさにチェックしないとこわくて創作活動なんてできやしない(ま、おおげさですが)。

 中学時代、なぜか発作的に、自分がいま考えている自分を意識するという妙な感覚によく襲われた(大人になったらなくなったけど、あれっていったい、なんだったんだろう……)。そのときに、たとえ世の中のことがすべて幻でも、いま考えている自分はぜったい存在してるよなぁ……と思っていた。で、高1の倫社か世界史で、デカルトの『方法序説』の有名な「我思うゆえに我あり」という言葉を習い「あっ! パクラれたっ!」と、なぜか悔しい気分に陥ったことを覚えている。先に生まれて、先に論文書いて発表したもの勝ちかよ……と400年近くも昔の偉人に向かってまったくアホなことを言っていたものだが、まあ、同じ人間、多かれ少なかれブレはあっても、誰もが同じような考えを持つものだ。それは「表現」にしても同じだろう。

 なので、どうもここぞとばかりに著作権を振りかざす芸術家には違和感を覚えてならない。もちろん、それは法的権利ではあるのだけれど、どんな作品も、意識的であれ無意識的であれ、既存の思考や表現に影響を受けている。似たような環境から影響を受けていれば、たまたま同じ表現をしてしまう可能性は否定できない。
 それとも、詩的表現で偶然同じ文言になる確率ってきわめて低いのだろうか? もし、法廷で争うことになったなら、そんな科学的根拠も提出される? だとしたら、裁判やって教えて欲しいな~。

投稿者 かめちゃん : 10:19 AM | コメント (0)

2006年11月01日

中学時代の友人と会って

2006-11-01.gif
 今週日曜日、十数年ぶりに中学時代の友人3人と会った(ひとりはそれこそ二十年ぶりか?)街中で会ってもたぶんわからないぐらい、イメージが変わっていた。でも不思議なことに、話し始めるとすぐ、昔のイメージに上書きされる。といっても、内面だけ……。

 とはいえ、話す内容は昔とは違う。中学校という、小さな校舎で繰り広げられる出来事が人生のすべて! みたいに思い悩んでいたあの頃を振り返ると「純粋だったよなぁ」とつくづく。いま思えは本当に小さな世界である。
 
 いまも学校内のいじめ問題がクローズアップされているけれど、昔からずっと、いじめはある。あからさまないじめをするのは特定のグループの数人なんだけれど、クラスや学年全体で、そのいじめられっ子をさける(無視する)態度が生まれるのだ。その空気がなんともいえず、陰険だ。ちなみに先生は知ってか知らずかノータッチ。こっちも期待はしていなかった。

 中学時代の自分のポジションは、いじめっ子ともいじめられっ子とも、友人とまではいかないが、無視はせず、席が近くになれば普通に話す、という程度。いじめっ子に「なんでいじめるの?」と聞いても、答えは返ってこなかったし、いじめられっ子と遊んでも、なにが原因なのかわからなかった。
 ただ、わかっているのは「人間は集団の中にあると、たちまちズルくなる」ということだけだ。いじめっ子集団のことじゃない。いじめっ子を止めることもできず、いじめられっ子と仲良くすることもできない第三者である「普通の生徒たちの集団」が一番罪なのだ。

 これは小学校で習ったことである。クラスのひとりがいじめられていたのを、そのときの担任が学級会で話題にした。そして、いじめっ子だけでなく、いじめられているの知っていながら、助けもせずに無視をした生徒も一緒に立たされたのだ。その中に自分もいた(というか、クラスのほとんど全員だった)。いじめがわかっていても、集団で無視すること。それがどれだけ個人を傷つけることなのか。自分は関係ないと思っている普通の生徒の態度がいちばん悪い。そのとき、クラスの全員が理解したと思う。

 なので、いじめをなくすには、いじめっ子やいじめられっ子を問題にするよりも、集団が作る残酷な空気に抗い、中和する力を持つ普通の生徒(個人)を増やせばいいことだとずっと思っている。たいしたことではなく、いじめっ子、いじめられっ子問わず、誰とも中立につきあえばいいことだ。「仲間」という空気に同化し、無責任に振舞えるような、特定の群れを作らずに(って、それが難しいのかも知れないが)。

 さて、久々に再会した大人になった中学生4人……だけど、そんな中学時代の話題なんてほとんどでない。なにしろ、同じクラスだったのはそのうちのひとりだけだし(それも1学年だけ)、あとは…………あれ? なんで仲良かったんだろう? (仲良かったっけ?)

 まあ、それはそれ。それぞれの近況を笑い転げながら話しているうちに、ふと、独身でアルバイト生活をしているひとりが「将来の不安」を口にした。さまざまな習い事をして技術をみがいてはいるようだが、仕事には結びつかないようである。もうひとり、離婚して派遣で仕事をしている友人も同じく不安そう。社員になる道はあるようだが、社員のノルマがきついようで、躊躇しているらしい。もうひとりはひとつの会社で専門職12年……というベテランなので、あまり将来の不安はなさそうである(結婚して旦那も稼いでいるし)。

 大人になれば、大人になったで心配事はあるものだ。でも、それもきっと20年後の未来から見れば、小さな世界のことだと思うだろう(いま、中学生だった自分を思い返すように)。将来に不安はないのかと聞かれれば、もちろん、いまの基準で予想すれば、とうぜん不安だらけである。でもまぁ、それは確約された未来ではない。
「15年後にまた会おうね!」
 といって、別れた4人(あっさりしてます)。さて、どんな未来で会えるのやら。

投稿者 かめちゃん : 02:23 PM | コメント (0)